『火花』のお話。
「人生は大丈夫。」
あの『火花』がドラマ化すると聞いた時、「でしょうね」と思った。あれだけ話題になって売れに売れて、芥川賞まで取ってる。そりゃ、話題にならないわけがないし、1話目は結構観られるだろうからそれなりの数字も見込める。手を挙げる人は山ほど居るだろうなと。しかも、映像化困難かと言われればそんなこともないし。まあ、面白く見せるのは難しそう、とは思ったけど。
でも、Netflixでのドラマ化には「えっ…?」となった。理由は極めて単純で、Netflixに加入してなかったから。さすがに『火花』の為に加入するのはな〜って思いました。そっかテラスハウスとか観れんのか。う〜ん、でもなぁ〜。となっていた。そもそも値段も知らねーし。見放題って2000円くらい取られんのかなぁとか思ってたら、月額650円〜だった。
結局、加入。最初の一ヶ月は無料体験期間だったってのと、『火花』が1〜10話までイッキ見出来ることを知ったから。そしたら、『最高の離婚』『結婚できない男』『モテキ』『横道世之介』『GTO』(反町の方)などなど。夢のような世界が。すげぇぞ、Netflix!!!まだ、入って3日。無料体験期間から有料期間への突入?全然ありやんけ!!!
そんなこんなで『火花』を二日間で5話ずつイッキ見。正確には半イッキ。
あらかじめ言ってしまうならば、Netflixでやって良かった。本当に。大正解。地上波でやらなくて良かった。地上波のドラマに否定的なわけではない。なんなら、大好きだ。でも、昨今のドラマの「分かりやすさ」「テンポの良さ」「明るさ」が視聴率を取る傾向、そして視聴率だけでドラマの善し悪しを決められてしまう傾向が残る現状では、この『火花』はその傾向にはそぐわない。視聴率悪くて、「火花散る!」みたいに書かれて作品の格が万が一下がるようなことになったら凄くいやだったから。だから、視聴率という御都合主義から守られる意味でもNetflixで良かった。
『火花』の為に加入するのはな〜と思ってるみなさん、『火花』にはそれだけの価値あるから安心して加入して見てください。観終わったら退会しちゃえば良いんです。
回を追って面白くなっていく作品。もちろん最初から面白いんですけども。その面白さは回を追うごとに増幅してくんですけど、それって純文学の持ち味なのかなぁと。なんで皆、小説ならじわじわ面白くなる作品を最後まで読めるのにドラマだと観れないんだろう。
もちろん、言うまでもないが、原作はピース・又吉直樹の『火花』
キャスト。
主人公の徳永太歩は林遣都。
もうね、観たら分かるけど、確実に又吉が乗り移ってる。声で選ばれたんじゃないかなと思うんだけど、もう喋り方、姿勢、表情、漫才での立ち姿が完全に普段テレビで見てる又吉。徳永は自分をモチーフにしてるわけではないって又吉は言ってたけど、まあ又吉っぷりが凄かった。微妙に猫背になってる感じとか。あと、特に銀髪の時に清潔感と不潔さが絶妙に入り混じる感じも又吉っぽかった。
師匠の神谷才蔵。波岡一喜。
『火花』が実写化するってなってキャスト色々考えてた時に、神谷は確実に波岡一喜だと思ってた。あんまり主役級の役のイメージは無いけど、『ベイブルース〜25歳と364日』という映画で、90年代後半に存在した伝説の漫才コンビ、ベイブルースのツッコミの高山役をやってて、この時の漫才がまあ上手くて。火花観たなら絶対に観た方が良い。観るべき。漫才のツッコミって言わば司令塔でプロと素人で一番差があるところやと思ってて、それを完璧にやってたから波岡一喜、凄いです。
多分ツッコミの重要性分かってるから、このメイン2人のそれぞれのコンビのツッコミにプロを持ってきたのかな。
徳永の相方、山下真人に井下好井・好井まさお。
神谷の相方、大林和也にとろサーモン・村田秀亮。
まず2人とも漫才の人やのに演技がめちゃくちゃ上手かった。好井、これからドラマとか映画のオファーめっちゃ増えそう。雰囲気、原田泰造っぽいし。
個人的なベストキャスティングは村田で、神谷とのコンビ「あほんだら」の芸人からの人気が高いのに今一つブレイクしない感じがもう完全にとろサーモンで。大林の神谷に振り回されつつも愛をもって見守ってる感じがもう、まんま久保田に対する村田なんですよ。
ええ加減、売れてくれ。とろサーモン。
その他も、門脇麦、染谷将太、田口トモロヲ、小林薫、渡辺大知、渡辺哲、高橋メアリージュンなどなど、まぁ豪華。温水さんとか武田梨奈とか山本彩、なんかも一瞬しか出てこない贅沢な使い方。他にも見たことある顔ぶれが山ほど。吉本の内輪になるどころか、世界狙えますやん。あと、合間合間にちょこちょこいろんな芸人が出てくる感じも楽しかった。漫才のオーディションで審査員の後ろにピントが合わない大西ライオンがいるのとか楽しかったし。
関西弁を話す登場人物に、関西弁がネイティヴの役者をキャンスティングすることは絶対的な正義である、と思った。林遣都は滋賀出身で、波岡一喜は大阪出身。関西弁がネイティヴじゃない役者さんに無理に関西弁を話させようとしたってほとんど得がないと思うんです。特に関西人はそこだけ異様にシビアだったりするんで。
と思ったら「唯一(又吉が)こだわっておられたのは関西出身でネイティブな関西弁をしゃべれる方が良いということだけ」って廣木隆一監督がインタビューで言ってた。http://eiga.com/news/20160604/8/
廣木隆一監督の作品としては、「さよなら歌舞伎町」を観たことがあった。引きの画と長回しの印象が残ってたんだけど、今回、、どんだけ長回しすんねん!!最高か!!引きの画での長回しが凄い多い。余韻たっぷり。余裕がないこの時代に逆らうかのような余韻の多さ。この余韻のたっぷりさが贅沢で、しかも作品の空気感をどんどん濃くしてくれる。たまらんわ。そういえば、染谷くんも田口トモロヲも「さよなら歌舞伎町」出てたね。
あらすじ。Netflix公式に載ってたやつ。
売れない芸人の徳永は、営業で行った熱海の花火大会で先輩芸人の神谷と出会う。誰にも媚びないスタイルと天才的なセンスに強く惹かれた徳永は、神谷に弟子入りを志願する。神谷が伝えた唯一の条件。それは、
「俺の伝記を作ってほしいねん」
夜ごと浴びるように酒を酌み交わしては、「お笑い」について熱く語り合う徳永と神谷。神谷は自らの笑いの哲学をさらけ出し、徳永はそのすべてを吸収しようとする。馬鹿馬鹿しくも純粋に笑いに向き合う時間を共有していく中で、二人の歯車は少しずつ噛み合わなくなっていく。
コンビとして少しずつ売れていく徳永と、すべてが思うようにいかずもがき苦しむ神谷。
ある日、神谷は借金を抱えたまま忽然と姿を消してしまうのであった。
ざっくり。でもまあ、あらすじなんて粗い筋なんだから許そう。
物語は2001年から始まる。すでに徳永も神谷も漫才師。てことは、M-1チルドレンではないんだね。ちなみにこのお話のラストは2010年。M-1最初の10年としっかり重なる。お笑いブームが来る少し前か。花火大会の営業。皆、花火を観に来てるわけで無名の若手の漫才を観に来ているわけがない。時間が押して花火が上がる中での漫才。最初に出番が来たスパークスの漫才を見る人はいない。そのまま漫才が終わり、舞台袖に戻る徳永に神谷が「仇とってきたるわ」と言って舞台に上がる。
2人が出会う。舞台上で神谷は客に吠える。漫才を観ている客、花火を観る客にひたすら「地獄に落ちる」を連呼する。その型破りで自由なスタイルに衝撃を受けた徳永は神谷に弟子入りをする。そこから始まる師弟関係。ただただ笑いとは何かを突き詰めようとする2人の会話がベースとなりお話は進みます。もはやこの会話がそのまま漫才になるんですよ。そもそも漫才って2人の人間が等身大の会話をしててそれがたまたま面白いもの。なんなら、2人が一番漫才してるんじゃないかな、舞台上ではなく居酒屋で。
で、2人の関係において欠かせないのが門脇麦演じる真樹。
神谷と同居していたが、最後他の男と付き合うことになり、神谷との縁が切れ、これにより神谷が変わっていってしまう。『火花』という物語の変容において最たる重要人物。なのに存在感としてはとてもさりげなく添えられている。その存在感としての門脇麦、やっぱりすげーなって。『二重生活』観ないと。
それぞれのコンビ、スパークスの物語、あほんだらの物語もちゃんと描くから本当に物語としてすごく丁寧。
やっぱりスパークスの成長の物語、青春物としての充実度も凄くて。小学校の頃、夢路いとし・こいしの漫才を見てから始まっていた2人の物語。ネタ合わせの場面、出番直前の舞台袖、漫才、帰り道。これ、いわゆる青春じゃないですか。でも、ドラマって必ず青春は終わるんですよね。9話。徳永は山下ができちゃった婚するとともに実家に帰ることを告げられる。相方でありながら小学校の頃からの友達でもある山下の人生を考えるしかなかった。そして、解散することが決まる。
最終話10話の冒頭。2人が演る最後の漫才。2人の本当の気持ちと真逆の言葉をぶつけ合うことをフリに本当の思いを思いっきりぶつけて伝える漫才。徳永は山下に「お前と漫才してて楽しくなかった。俺は不幸だ」と言い放つ。さらには客に向かって「死ね」という言葉をぶつけまくる。感謝の気持ちを添えて。それは奇しくも自分の師匠・神谷が彼とはじめて出会った舞台で「地獄」を連呼していたあの時のように。それを見守り涙する神谷。
涙します。でも、最後は笑います。本当の「泣き笑い」がそこにはあります。
「泣いて笑って夢を見た」という曲を作ったファンキー加藤さんにも、この映画を見て欲しいなぁ。映画ちゃうわ、ドラマやった。
笑いの力は偉大だ。正義だとすら思う。笑いというものの本質の中には「救済」があると思う。笑わせる人間と笑う人間、双方を救う行為。笑う人間は、わかりやすい。笑うという行為によって癒されることは誰にでもある。じゃあ、笑わせる人間はどうか。笑わせるという行為は成立した瞬間に自分自身を圧倒的に肯定することが出来る。失敗、不幸を笑い話に出来るかどうかで人生見える景色は全然違う。失敗や不幸が笑い話になったあの瞬間、救われると思うことが多々ある。それを僕にテレビを通じて教えてくれたのは松本人志と又吉直樹だったんだと思う。
だからこそ、この『火花』の10話のラスト。めちゃくちゃアホだ。その名の通り、あほんだら。あと、これを観たらあ、そりゃ地上波無理やわ。(笑)
徳永の物語として、この『火花』という作品があったならスパークス解散、そして最後の漫才。そして神谷は消えて2度と会うことはなかったーみたいな展開でも良かったんだと思う。
しかしそうはならなかった。神谷は超えてはいけない一線を超えて徳永の前に現れる。お笑いというものを信じきった男は、自分自身をさらに道化にしようとして、とんでもない、果てしないアホな姿で現れる。
「Fカップです。」「何してんねん。」その姿に絶望を感じて悲しくなって泣いてしまう。でも、それでも、そのアホさに笑ってしまう。神谷のアホさと真面目につっこむ徳永にも、アホさに気づいて泣いてしまう神谷にも笑ってしまう。そうすることが神谷を救うことでもある、と視聴者側が感覚的に分かってしまうから。人間、「こいつなら仕方ないな」と思わせたら勝ちじゃないですか。なんなら、神谷はそういう奴なんだと思わせるために10話あったんじゃないのか。そこまでして神谷を肯定することこそがこの火花の一番の目的だったんじゃないか。あほんだらに生きる男の尊さと美しさ、そして愛くるしさ。本当に素晴らしい作品でした。そして、その後の彼らをまだまだみたい。人生は続く。その後、職業漫才師ではなくなるかもしれないが、漫才師という生き方を続けているかもしれない。それならそれで見たい気もする。
「生きている限り、バッドエンドはない」 のだから。